鍛え上げられた体とジャケット

最も難しい体型

日本で最初の紳士服評論は、恐らく永井荷風の「洋服の話」だと思います(多分)。そこに出てくる最も腕の良い中国人テーラーでも、サビルローでも、古今東西全てのテーラーが悩んでしまうジャケットがあります。それは極めて筋肉質な方の服です。例えば、ズボンではサッカー選手、ジャケットでは金メダリストの室伏氏、タレントではなかやまきんにくん氏のような体型です。

  ジャケット パンツ
野球選手
サッカー選手 ×
競泳
体操選手 ×
ボディビルダー × ×

スポーツ選手は、既製服が中々合わず、随分と苦労される方が多いと思います。右の表は一般的なスポーツ選手と服が奇麗に収まるか否かです。

服は必ず相対的な問題になりますので、何処かが「特に」発達していると、なかなか収まらなくなります。総合的なスポーツである野球やゴルフ選手、中長距離走者、適度の泳手はスーツが良く似合います。

全くの思い込みですけれど、ゴルフでは誰が優勝するか分からないにも関わらず、お仕着せのグリーン・ジャケットを優勝ゴルファーが着用できてしまうのは、その体型のせいだと思っています。

プロまで行かなくとも、趣味で体を鍛えられておられるかたで、上半身が美しい逆三角形になっている方、これらの方の体に合う“既製服”のジャケットは、通常手に入る範囲では存在していません。これは単に「サイズが無い」ためではありません。そのため、もしサイズ(B/W/H)が完全に合うスーツがあったとしても、体に合いません。

しばしば、その理由もお尋ね頂くのですが、ご説明もなかなか困難です。そこでサイト上で書いてみることにしました。ただ、かなり難しいので、ご興味のございます方のみご挑戦ください。

肩幅は同じだけれども胸囲が違う

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上の図を痩せた人、下の図を同じ骨格の鍛えた人と考えて下さい。

上半身を鍛えても、全く大きさの変化しない場所があります。それは肩幅と腰幅です。鍛えられた体と、そうではない体では全く印象が異なりますが、骨格は変化しません。逆三角形の体型を作るのは、肩幅と腰ではなく、胸囲と腰の差寸です。

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既製服では胸囲から他のサイズを割り出します。これを割り出し寸法と言います。

例えばボディビルダーの方がジャケットを肩幅で合わせると、必然的に胸が収まりません。胸を納めようとすると、「ウエスト/肩幅/丈」がかなり余ることになります。胸が収まるジャケットを選ぶと、江戸時代の上下のように肩幅が余ります。

最近流行の体にぴったり合う服というのは、既製服ではそもそも存在しないことになりますね。これは大きい方専門の服を扱う店でも同様です。サイズが大きいだけであって、体型に合わせている訳ではありません。これは構造上の理由によるためですので、ますます、体を鍛えている人に合う服は存在しません。

存在しない構造上の理由

この問題は極端に専門的で難しいのですから、どうぞご興味のございます方のみ挑戦なさってみて下さい。服は全て相対的な「比」と「角度」で出来ていることを念頭に置いて頂ければ、分かりよいと思います。また、以下は非常に乱暴で誇張した説明ですけれども、ご容赦頂ければ幸いです。

胸側を大きく鍛え過ぎると袖付けが窪む

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体を鍛えた結果、胸側が背中よりも大きくなったとします。すると、左の図のように、体の線が後ろに行きます。胸側の余裕量を大きく取る必要があることになりますね。

胸にボールが入っているのと同じことですから、この余裕量を確保するため、右図のように衿の延長線上を伸ばし、これを種々の操作によって縮め、余裕量を確保します。

しかし、元々、ジャケットは胸が厚いことを想定しているとは言え、縮めるにも限度があります。その限度を超えた場合、袖が正常に付かなくなります。

右下は通常の肩と袖です。肩と袖が90°に繋がりますから、ちゃんと180°、真っ直ぐになります。しかし、右上図で余裕量が多すぎる場合、完全には戻りません。肩と袖の交差が180°にならず鈍角になります。結果、袖を付けた場合、袖付け部分が指で押さえたように凹みます。

一般に、欧州既製服は胸の確保量が多いのですが、あくまで日本服と比べて相対的に多いに過ぎません。この凹む問題を回避することは可能なのですが、既製服で回避した服が存在するかと言えば…、ありません。従って、相対的に胸が大きくなればなるほど、既製服ではルースな服を選択せざるを得ません。

多いにも関わらず極めて困難な体型

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体を鍛えている方で、背中側が大きい方は多く見えます。いわゆる屈身体ですね。同時に、首周りにも筋肉が多いですから、撫で肩になります。…この体型がテーラーにとって最も困難であり、同時に一番面白い所でもあります。

屈身体は上記の反身体とは逆です。背中の方が大きい、つまり胸の方が小さいと考えます。胸のボリュームを減らすという考え方になります。しかし、そうすると右図の赤い線のように、反身体とは別の問題が出て来ます。つまり肩の角度が「必然的に怒り肩」になります。

屈身体で、なおかつ撫で肩にするには、反身体と同じように赤い線を上に上げなければなりません。しかし長いものを縮めるのは可能でも、短いものを伸ばすのは不可能です。そこで、肩の部分を「起こし」ます。

左図の上が怒り肩になってしまった服です。これを修正するために左図下のように、点線の丸で囲った部分を全体的に左にうつし、90°を確保します。ただ、この処理の結果、また他に影響が出てしまいます。それを修正するためには…と、更に工夫が必要になって来ます。

この部分の変化は他への影響が大きいため、かなり難しくなります。

筋肉のバランス

上記問題の回避は、極めて種々の制約が強いため、各テーラーが最も工夫を凝らす所です。色々と独自の方策を取っており、屈身体で撫で肩の服は、最も仕立ての癖や個性が出て来る面白い所です。私自身にも独自の工夫がありますけれど、…ヒミツです。

オーダーでもかなり工夫しますから、既製服ではまず存在しません。そのため、体を意図的に鍛える場合、バランスよく鍛えて頂くと服の選択肢が広くなります。胸や背中だけをアンバランスに鍛えると、合うジャケットは少なくなっていきます。ただ逆に、筋肉の付き方のバランスを考えて鍛えて頂けると、選択肢は随分と広がります。

体型の善し悪しを、しばしば「プロポーションが良い」と言います。勿論、proportion は 「比」を意味します。個々のサイズよりも、体の各部位の「比」が重要なのは服でも同じになってくるわけですね。

なんだか、余りといえば余りにマニアックですけれども、もしご参考になれば幸いです(流石にここまで来るとご参考にならないような気がして来ました)。次回こそ、次回こそは、コーディネートや流行変遷をやりたいと思います。

2005.10.29