ゆったりだと着心地が悪い事もある
最近のはやり
最近、テレビを見ていると、ジャケットを着用する方が増えている事に気がつきました。しかも、概ねが非常に奇麗なシルエットを持ったクラシコスタイルです。クラシコはジャケットの醍醐味の一つ、体の曲線を如何に奇麗に出すかが眼目ですから、体にぴったりと合っている事が大前提です。
しかし、他方、日本では今から15年ほど前、アルマーニが「体にぴったりさせない、ゆとりを持たせた」ジャケットを流行らせた事がありました。それまでイタリアなど欧州ではまさしく「クラシコ」が大原則でしたから、非常にインパクトがあり、ジャケットの歴史を知った人は大変面白がったものです。なのですが、当時、日本では悪名高きバブルの絶頂期です。イタリアのアルマーニと言う「有名ブランドであるが故に」求めた方も大変多かった訳です。
その結果、奇妙な勘違いが巷に行き渡ってしまった様な気がしてなりません。
ゆったりしていると袖ぐりが大きい
アルマーニの様な服が流行った結果、既製服であれば「大きめ」、オーダーであれば「ゆったり目」を求められる方が増えました。今ではこの様なデザインは流行りませんから、このように指定されるのは、恐らく「ゆったりしている方が着心地が良い」と思って見える方が多いのだと思われます。
確かに、Tシャツやジーンズ等、カジュアルでは多きければ着心地が良いかもしれません。しかし、ジャケットではそうとも限りません。
例えば「袖ぐり」です。袖ぐりが大きいと、脇の下の圧迫感がありませんから、一見着やすそうです。ズボンと腕を突っ込む事ができます。しかしこれがくせ者です。この理由は図での説明が大変難しく、現物を見てもらうのが一番良いのですが、とりあえず、図解してみます。
この二つの図、黒い棒は腕と思ってください。その周りの白い箱を、袖と袖の付いている前身頃だとします。左の二つの図では、「原則としての腕の付き方」が違います。左では腕が下についている場合、右では腕が横についている場合です。
何が最も異なるでしょうか。ちょっと見には分かりにくいですが必要な袖ぐりの大きさが違います。腕を降ろしている方が、必要な袖ぐりが大きく、腕を上げている方が必要な袖ぐりが小さくてすみます(実際にはわずかな差ですが、この図では誇張して書いています)。
ゆったりしていると腕を上げにくい
もし、腕を下げているのを原則としている上の服で腕を上げた場合どうなるでしょう。下の図の黒矢印の部分だけ布がたりません。ジャケットの生地はそれほど伸びませんから、足りない分だけ「前身頃が持ち上がります」。
袖ぐりのゆとり量が多ければ多いほど、腕を上げた時の不足分が大きくなります。その結果、腕を上げるたびに「ジャケットの前身頃全体が上に持ち上げられる」事になります。
この様な袖ぐりの大きさの差は、アルマーニの様なタイプとクラシコスタイルでは、僅か2〜3cmしかありません。ですから、見た目の印象は殆ど変わる事はありません。しかし、たった2〜3cm袖ぐりのゆとりを大きくしたために、非常に腕を上げにくくなります。
腕を日常生活であげる事はそんなに多くないと思われるかもしれません。しかし、電車のつり革を持ったとき、椅子に座ってパソコンや書類仕事をする時等、以外に腕を上げる場面は多いものです。
ゆとりを大きく取った場合、腕をおろしている姿が基本になるため、腕を降ろして立っている時には快適かもしれませんが、それ以外の動作では着心地が悪いということになりますね。
ゆったりが悪い訳ではなく・・・(コート)
この様な問題があるために、徹底的に服にこだわる方は「座る事が多いのか、立つ事が多いのか」でジャケットを作ったりします。そこまでこだわって頂ければテーラーの冥利に尽きると言うものですが、こだわらなくとも普通は「立ちもするし座りもする」方が多いです。
ただアルマーニの登場まではクラシコスタイルが原則で、そのスタイルには100年以上の歴史があります。着心地の研究はしつくされているといっても過言じゃありません。ですから、クラシコスタイルは着心地が悪いという訳では決して無く、またゆとりが多くても着心地が悪い事が多くあり得るんです。
例えばゆとり量の大きい服と言えばコートです。コートでは通常の採寸に+4cmのゆとりを持たせます。中にジャケットを着るからですね。ですから、コートを着て腕を上げるのはきわめて困難です。しかしコートは基本的に腕を降ろして立っている状態を前提としています。ですからゆったりとした「ゆとりを持っていて」も何の不都合もありません。
アルマーニが登場したとき、確かに大変面白い服でした。アルマーニが提案するだけの価値はあったと言っても良いです。しかしアルマーニはデザイナーですから、当然、今ではかつてのゆとりの大きい服は作っていません。デザインはデザインとして、ジャケットの着心地は着心地として、双方、別々に存在しうる訳ですね。