芯
芯と生地の格子目
ずっと前にも書きましたが、ジャケットは単に布と糸で出来ている訳ではありません。布や糸も重要ですが、最も重要なのは生地に隠れて見えませんけれども、「芯」です。大まかなシルエットを作るものをバス毛芯といい、丈夫な馬の毛を使っています(「馬尾」と書いてバスと読みます)。その他、純毛の毛芯などで細かいシルエットの調整を行って行きます。
それほど重要な「芯」なのですが、重要なだけあって非常に手間がかかります。完全に手縫いにすると、なんと1800針も縫わなければなりません。しかもこの「芯」の縫い方は非常に難解で面倒くさいのです。
右の図の内、濃い線で格子が書いてあるものを「芯」、薄い線でかいてあるものを「生地」とします。本当はこれを直接縫い合わせる事は無いのですが、表現の便宜上そのように書いてあります。
人間の体は曲線ですから、その曲線のありようを毛芯でしっかりと作ります。この芯の上に生地を這わせてシルエットを作ります。
しかし、芯も生地も布地ですから、湿気や温度で伸縮を繰り返します。このとき、芯と生地の格子の目がきっちりとあっていれば、伸縮方向が同じになりますから、しわができずにシルエットを維持できます。
これに対して、もし「芯の格子目」と「生地の格子目」がずれていた場合、伸縮方向がずれてしまいます。その結果、シルエットは崩れやすく、しわが直ぐに出来てしまう事になりますね。
「芯」は非常に重要なのですが、このような布地の目を考え、それを完全に狂い無く固定しようとすれば、非常に面倒くさくて、手間も膨大になります。また経験も要求されます。
ということは、量産にはそもそも向かないことになりますね。熟練の職人が縫わなければなりませんから、中国に出す訳にもいきません。工場で機械縫製する訳にもいきません。このような事情から手縫いの毛芯を持った服は比較的高価になってしまう訳です。しかし抜群の美しさとシワの出難さ、着やすさは言うまでもありません。
手縫いのハ刺
芯と生地を縫い合わせる縫い方を「ハ刺」と言います。縫い目が丁度「ハハハハハ」とこのように並んで見えることから、この名前がついています。このハ刺も手縫いと工場での機械縫製では全く異なります。
毛芯をハ刺で縫い止めた場合、生地と芯の間に空間を作ります。この空白とは言うものの大変僅かなものですが、この空白があるかないかでは随分違います。
この空白が丁度ばねのように、生地と毛芯の収縮を吸収してしまいます。このハ刺の縫い方の強弱で、この生地と毛芯のずれの程度を調節する事も出来ます。このような縫い方の強弱と言う工夫で、更にシルエットは奇麗に、くずれにくく、シワも出難くなり、更に着心地が抜群になります。
付記: なお、図は分かり易さを強調したものになっています。ハ刺しが表に出るよう作ってしまった学生さんがいると伺いました。誤解を得る書き方になり真に申し訳ありませんでした。本当にこのように作る訳ではありません。本当はこのようになっています。
接着芯
しかし、このような手間のかかる芯の縫い合わせをやっていては、量産できません。従って価格を下げる事も出来ません。量販店やスーパーに並ぶ1万円程度の服で、このような作業が行われている訳はありません。
では、どうするか。接着剤を使います。接着剤で芯と生地を張り合わせてしまう訳です。このようにすれば、布地の格子目と毛芯の格子目を考える必要もありませんし、1800針もの手間を省けます。
接着剤を塗って貼り付ければ良いんですから、こんな楽な事はありません。しかし、便利さや安易さは、引き換えに大事なものをなくしてしまいます。
この場合、接着芯にした事で、簡単にシルエットを保つ事ができるようになりましたが、同時に「糸によるクッション」が無くなってしまいます。毛芯か生地かのどちらかが、「湿気や温度」でずれたりすれば、直ぐにシワができ、ごわごわになります。また、接着剤ですから水に非常に弱く、雨に濡れれば接着剤が緩み、やはりごわごわになってきます。
また、この方法を使ってしまうと、生地を接着剤で芯地に添わせますから、まるで紙のようにぺらぺらの印象になってしまいます。Super120 の生地の風合いは、滑らかな生地の揺れなどに現れますが、これも接着剤で殺されてしまいます。どんなに良い生地を使っても、その良い生地なりの風合いは死んでしまいます。
ということで、この方法は戴けません。価格だけを追及した方法という事になるでしょう。
接着芯とハ刺の両方を使うと
手縫いでハ刺を入れると大変奇麗ですが、比較的高価になります。しかし接着芯は価格だけのメリットしかなく、とてもじゃありませんが使えません。
この折衷策として考え出されたのが、接着芯とハ刺を双方ともに使う方法です。生地と毛芯の格子目を合わせるのには熟練の技が必要です。ですから、これをずれないように、軽く接着剤で仮止めします。そうやって固定した上から、一気に縫製機械で縫い目をいれます。
完全手縫いに比べれば、「糸によるクッション」の効果は薄いですが、完全な接着芯に比べれば少しましです。一般的な機械縫製、イージーオーダーではこの方法がとられています。
この方法は機械縫製の特色と、ハ刺の特色を双方共に生かそうとしています。しかし、それでも、やはり接着芯を使っている以上は、やはり風合いが殺されるのは免れません。正直に言えば、今一つです。
ミシンでハ刺
手縫いのハ刺を避けようとして最後に現れたのが、ミシンでハ刺です。ある意味、手縫いよりも面倒くさく、技術がいります。イタリアで開発された手法で、日本でも採用するところがあります。
ハ刺をミシンで行う以外、全て手縫いのハ刺と同じです。芯地と生地の格子目も合わせます。機械縫製でこれを行うと言うのは、手縫いとは少し違った面での技術がいりますから、ミシン縫製中の最高品と言えるでしょう。
手縫いのハ刺と同様に、ミシンの針の強弱を調整し、空白を作って芯地と生地の間のバネもちゃんと作る事が出来ます。少し融通が利かない感はありますが、殆ど手縫いと変わらない調整を取っています。
手縫いでハ刺を入れることのできる名うてのマイスターが、単にミシンを使って作るというだけですから、下手をすれば日本の手縫いオーダーよりも価格は高くなります。なぜわざわざミシンを使うかといえば、少しでも納期を早めたいからというわけです。
日本のテーラーの怠慢
日本のテーラーの作品よりも、イタリアの作品のほうが高級感、信頼感があり、高い価格の設定を許されているのは、実はテーラーの怠慢以外のなにものでもありません。私もテーラーですから人のことは言えません。日本の縫製職人の技術に、イタリアの一流どころが感激して土下座するとまで言われた日本の高い縫製技術からすれば、このような事態は避けられたはずです。
最大の失敗はイタリアから発信されたソフトジャケットを「風合い優先、技術はいい加減」と馬鹿にして、導入しようとしなかったことにあるでしょう。ファッションに遊び、楽しさ、品、優雅さを忘れては何にもなりません。
今ではイタリアのソフトジャケットも技術は洗練され、相当に綺麗なものになってきました。しかし、当然ながら、それを導入しなかった日本のテーラー業界で、この種の技術が発展しないのも当然です。
ただ、日本の職人も、このことをある意味後悔していますから、当時の若手が育っています。もともと技術ではイタリアよりも優れている日本の職人集団です。なんとか追いつけつつあると言ったところが、現状でしょうか。