cool biz
Cool Biz
クール・ビズ、一昔前にあった省エネルックの変形版のようです。京都議定書で日本が二酸化炭素の排出を規制しなければならないため、クーラーの設定温度を上げるべきであり、そのためには暑いスーツや背広を捨てるべきだという議論のようです。
たまたま目に触れた某新聞の社説では「暑いのに意地を張って背広で通すこともあるまい」とあります。暑いのに暑い姿をするからクーラーを使い、それが過剰であるからヒート・アイランド現象も起きれば、二酸化炭素の排出も増える。従って「背広を捨てるべきである」と続きます。テーラーがこれに対して一定の態度を表明すれば、それは利害関係があるからだとの誹りを免れません。ただ、利害関係を抜きにしても、このクール・ビズという発想下に横たわる感覚に私は嫌悪を覚えます。
似合わない
夏に背広を捨てれば、代わりにオジサン達が身につける物は何でしょう。最初は開襟シャツ、それでは詰まりませんから、その変形として「かりゆし」ウェアとなったのでしょう。しかし、ざっと眺めました所、高い建物の乱立する狭い空、東京の灰色の空の下で、かりゆしウェアは、街中でアロハシャツを身につけているような感覚になります
また、最終的にはポロシャツになるとも容易に想像が付きます。ポロシャツはスポーツウェアですから、そこまで行けば最悪です。更にその下に何を身につけるでしょう。恐らくダボダボの綿パンを身につけそうだと容易に見当がつきます。体を鍛え上げた方や若い方が、そのような姿をすれば未だ似合うでしょう。しかし、筋肉が細くなり、特に臀部が衰えてくれば、普通の綿パンを履いてもダボダボの印象になります。つまり「ステテコ」を履いたような印象です。
私が何を嫌うか、一言で言えば、この「自分の姿が他人にどのように見えるか」という事についての想像力の無さです。オジサンの服装がなぜ嫌われるか、私は非常に端的だと思っています。似合わないものを似合わないというセンスも持たず、また「自分が楽であるから周囲は黙れ」という怠惰な傲慢を、社会や周囲に強制的に許容させる自堕落にあると考えます。もし楽であり涼しい事が優先されるなら、そもそも「臑毛が見える半ズボン」を履いてクーラーを切れば良いのです。
沈黙の礼儀
最近の人間は礼儀を失ったと言う人があります。当然、ポロシャツや綿パンでは、それ自体が礼儀を表明する事はありませんから、必ず礼儀を表明するには「言葉」を介する必要があります。したがって、言葉を交えることない「その他の人」には服無しで敬意を表すことは不可能です。
服は沈黙の意思表示です。具体的な相手に対する敬意を表明する意味を持ちますし、また具体的な相手のみならず、周囲の人たちなどに対する公への敬意をも表します。勿論、そのような敬意の集合があれば、その集団や環境の雰囲気も変わります。そのために「ジャケット着用指定」のレストランがあったりする訳です。
「関係ない筈の他人」に対する敬意の表明、加えてそのような敬意を表する人達全員が作り出す雰囲気が、そのレストラン全体の雰囲気を決めてしまう訳です。料理は高級であっても、それがポロシャツやジーパンだらけなら、それは場末の店と何ら代わりがありません。また、そのような料理を創意工夫して作ったシェフに対する敬意もありません。服で敬意を表明できないなら、「言葉」で行う必要があります。しかし、どうやって敬意を表明するのでしょう。
皮肉な事に、ジャケット着用の「消費」が要求される場所があるに対して、ジャケットを着用すべきでない「生産」の場所があるわけです。国会議員の方は立法の場でジャケットを着用せず、接待や合議をはかる場合に、ドレスコードのあるレストランで食事をするとでも言うのでしょうか。ならばレストランでの食事の方が立法行為よりも優先順位が高い事になりませんか。
合理性の名の下に、敬意を表明する事、文化そのものを犠牲にすることに、一体何の意味があるのか、私には理解できません。かつて教師は教壇そのものに敬意を払い、教壇に対して一礼しました。私はこれを非合理的である無意味な行為とは全く思いません。
合理性は何かを捨てる
合理性は大流行りですが、私はこの合理性の強調にも疑問があります。かつて universal design という思想が流行った事がありました。universal design の思想、これは世界中の何処でも通用するデザインと品質を備えたものが優れており、均質、画一でなければならず、大量生産によって安価に提供されるものが正しいという信念です。
この信念の下に、確かに良い物もたくさん出来ました。最も代表的な物が「マクドナルド」です。栄養価が高く、美味しいものを、世界中で何処でも安価に提供することを目指しています。もともと、その志は高かった訳です。しかし、現在、マクドナルドを無条件に賛美する人はいません。住宅では2x4がそうでしょうか。安価で丈夫な住宅です。そのため住宅団地では見渡す限り同じ家が並びます。
長い間、この思想は陰に隠れていましたが、最近ではまた復活しつつあるようです。経済では globalism と名を変えています。住宅デザインでは、そのまま universal design というフレーズでの宣伝があります。もともと住宅デザインで使われた言葉ですから当然です。
しかしこの概念の強調はとんでもないものも生み出しました。社会的に合理的でない存在は抹殺せよという理念です。つまり生産性の低い病者や老者の切り捨てです。そのため、欧米ではかつて老者を収容する施設が廃棄物処理場の隣であったり、治療可能性の無い病者や犯罪者を「捨て」ました。米国では老者は必死です。自分が役立たずでない事を必死に証明し続けなければなりません。さも無ければ社会的な無用物となるからです。
合理的であることそれ自体に問題はありません。ただ、「合理性の名の下に何を捨てるのか」という事が、それに劣らず重要だと私は思います。合理性、universal design とは、多様性を犠牲にして成り立つものです。世の中を変えたいと思う人は「捨てるもの」には殆ど頓着しません。捨てるならば捨てるで構いませんが、覚悟を決めて、だだくさに捨てないで欲しいと思います。
服でも同様です。化繊を交えた一定品質の服の大量生産は、人の体から個別性を奪いました。体型上の差異も許しません。デザイン上の差異も許しません。更に耐久性も奪います。「ジャケットの形をして安価」という合理性を実現するために、大量生産、大量消費という環境負荷を掛け続けました。
某コンビニエンス・ストアの社長は、何かのインタビューで、「今の世の中ほど、均一で画一化された時代はない」から「そこに目をつけた」と言っていました。なるほど、私にもそのように見えます。日々、礼儀の重要性を訴える人、教育で公の概念が重要である事、大量生産に対する批判、高付加価値製品の必要性を訴えながら、その基礎となる観念が、無条件の合理性賛美では余りに悲しく思います。
楽であれば正しい?
「暑いのに意地を張って背広で通すこともあるまい。」
「暑いのに」と「背広」を、何か別の言葉に変えれば、さぞ色々な問題が起きる事でしょう。涼しい事は快適です。しかし快適であれば全てが良いかと言えば、全くそう思いません。もし楽である事が正しいのなら、電車で我先に椅子を奪い合う醜い光景を許容することと、一体全体、何処に違いがあるのか私には理解できません。「楽だから」という理由ではなく、「日本の風物に会うから」夏には着物を着るべしという主張であればまだ納得できます。
一介のテーラーが大仰で偉そうな事を書いてしまいました。実はこのクール・ビズ、私自身はそれほど大きな圧迫とも何とも思っておりません。どう考えても、ポロシャツやTシャツという姿に耐えられる人が多いとは思えませんし、実際、国会議員やお偉方よりも、よほど巷にはお洒落な人が多く見えます。ネクタイを外すことには吝かではありませんけれど、やはり重ね着の妙というものがあります。色合いを合わせる楽しみは、Tシャツや綿パンでは余り楽しめません。
予想外に長文となってしまいましたけれど、「あ、なかなか格好いい」と言ってもらえる服を、これからもご提案していきたく思っております。